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東京地方裁判所八王子支部 昭和25年(モ)165号 判決

申請人 富士工業株式会社

被申請人 全日本金属労働組合東京支部富士工業三鷹分会

右代表者 執行委員長

被申請人 三井平八郎 外二百八十五名

一、主  文

東京地方裁判所八王子支部が申請人、被申請人間の同庁昭和二十五年(ヨ)第九十五号(注参照)仮処分命令申請事件につき、昭和二十五年九月十五日なした仮処分決定はこれを認可する。

申請費用は被申請人等の負担とする。

二、事  実

申請人代理人は主文同旨の裁判を求め、その理由として次の通り述べた。

一、申請人会社(以下単に会社という)は昭和二十五年七月十三日訴外富士産業株式会社(以下単に旧会社という)の第二会社として設立された資本金八千万円、スクーター、自転車、発動機、化学纎維機器等の製造販売を業とし、肩書地に本店並びに三鷹工場、群馬県太田市に太田工場、東京都中央区に東京事務所を有する株式会社である。元来旧会社は戦時中設立された中島飛行機株式会社が終戦直後(昭和二十年八月十六日)その名称及び事業目的を変更して発足していたところ昭和二十一年八月十一日会社経理応急措置法による特別経理会社の指定を受け、昭和二十四年四月企業再建整備法による企業再建整備計画の認可を申請し、昭和二十五年五月三十一日主務大臣の認可に基く決定整備計画によつて十一の第二会社に分割され、その第二会社中の一つとして発足したのが申請人会社であるが、前記三鷹工場は昭和二十一年三月三十日商工省告示第五十二号で賠償工場の指定を受け、会社は重役五名の下に本社七名、三鷹工場八百二十八名、太田工場七百七十二名、合計千六百七名の従業員を擁し、旧会社と雇傭関係のあつた右従業員等は申請人会社設立と同時にそのまゝ雇傭関係を旧会社から引継ぎ、昭和二十五年七月十三日以降被申請人等は申請人会社の従業員として取扱われてきていたが三鷹、太田両工場にはいずれも旧会社時代にその所属従業員をもつて組織された全日本金属労働組合(以下単に全金属という)所属の労働組合が存し、現在夫々全日本金属労働組合東京支部富士工業三鷹分会(以下単に組合という)同群馬支部富士工業太田分会と称し、両者を以て全日本金属労働組合富士工業分会連合会(以下単に連合会という)を組織して、会社内に於ける組合の代表機関と称している。そうして会社と組合間の労働協約に関しては、旧会社と富士産業従業員組合連合会同三鷹分会との間に夫々昭和二十一年十月二十八日に締結された労働協約が存在していたが前者には昭和二十四年十月二十八日、後者には更に昭和二十五年七月十三日いずれも旧会社の廃棄通告により失効し、従つて第二会社である申請人会社と組合並びに連合会との間は無協約の状態にある。

二、而して三鷹工場に於ては、従来組合の旧会社に対する態度はともすれば正常な組合活動の範囲を逸脱する行動が多く、昭和二十四年下半期以来特にその度を加え組合の圧力のために課長の大部分も職制としてその職務を執ることができず、課長全員が旧会社に対して辞表を提出するに到つた程であつた。それに対して旧会社はこれを慰留したけれども課長級に特殊政党に所属すると思われるものがあり(筆頭課長浅野彌祐)工場長の業務命令は殆んど行われず世上稀に見る例として旧会社に於ても処置なしとして成行にまかせていたような状態であつた。この間に於て組合は昭和二十五年始め頃から同年七月始め頃まで一万二千円の賃金ベース引上げ(当時の賃金ベース九千円)要求を以て旧会社に迫つていたのであるが、その間組合は吊上的連続団体交渉はもとより工場長十川次郎に対する人身攻撃、辞職勧告、部課長の吊上げ等その暴状誠に忍び難いものがあつた。この為旧会社はその圧力に屈し同年三月分までに暫定手取一万百円支給、四月十四日基準生産額二千六百五十万円に対し九千円、保証超過生産額の二十%を加給する旨の提案をなしたが、組合はのまず同年五月三日には五、六月両月分に限る暫定措置として九千円ベースの外に特別報償金三千円を支給することゝする等、多大の譲歩をなした。更に同年七月十日に至り連合会から改めて賃金一万二千円要求の申入れがあり、旧会社としては当時前叙の如く決定整備計画により、三鷹、太田両工場を以て第二会社として発足せしめんとする際であつたのみならず、新しく発足する会社としては、巨額の債務と信用の稀薄、先行見透しの悪いことなどのため、到底右要求に応ずることはできないので、従来の賃金関係を御破算とし、ついで新会社発足後会社の経営並びに経理の実情に基き八千円の賃金ベースを主張し、数次の団体交渉を重ねたけれども組合は日本経済の現状を考えず会社の苦境を顧みずして頑強、執拗に一万二千円の要求を固執し、同年八月二日会社が提案した八千五百円の最大限度の譲歩をも頭から受付けようとせず、組合の暴状は愈々募り三鷹工場は全くの生産管理の実情であり会社の帳簿その他重要書類に至るまで組合の手中にあつたので、会社は昭和二十五年八月九日業務中十川工場長、城所総務課長をして工場の帳簿を持出さんとしたところ組合員は之を阻止して持出さしめず更に依つて会社は組合員のいないときに之を持出そうと同年八月十五日午前四時半を期して工場に出向き、これが搬出に取りかゝたところ、当時工場内に泊込中の組合員数十名に発見せられ、右組合員等は搬出に従事していた部課長を捕えて不法に監禁し、これに暴行を加える等の事態すら発生した。一方作業についても前叙の如く工場長以下の職制による正常な運営をしばしば妨げていたが、十川次郎工場長排斥を策し、同人が工場内に入るや直ちに作業中の組合員をして職場を抛棄せしめて組合員等をその周囲に蝟集させて吊上げを行い、排斥ビラ、ポスターの配貼布、私宅に於ける面会強要等の方法によつて同人の退職を要求し入場を拒否する等の行動に出て同工場長は已むなく工場外において執務した、又課長等に対しても屡々多衆を以てこれを取囲んで同様吊上げを行い、前記浅野彌祐もと課長を擁して実質的な生産管理をなし、或は工場占拠に等しい事態を現出し、工場の生産は五十%以下に落ちていたのである。これがため会社は昭和二十五年八月九日浅野彌祐、同月十二日城所和一等に退職を要求するの止むなきに至つた。

三、以上の如き組合の暴状に対し、会社は隠忍、自重以て円満な解決の道を見出すべく懸命の努力を重ねてきたのであるが、事態は何等好転せず生産は愈々低下したゝめ、賃金の支払にも支障を来すに至つた。かくて八月十五日午前〇時組合がストライキに入るや会社も遂に意を決しかゝる組合の態度ないし行動が継続せられる以上会社の蒙る損害は累増するのみであつて、企業の経営維持は到底不可能であり、又かゝる混乱の中に工場の管理権を喪失することは、賠償施設の管理担当者(当時賠償施設の保守保管の責任者は、取締役小谷武夫)の職責を眩しくするものと考えざるを得ないので、会社は八月十六日午後六時組合の無期限ストに対抗して工場閉鎖をすることゝし、組合に対し同日午後四時四十五分工場閉鎖を打電し、更に更めて同日夜内容証明郵便で工場閉鎖の意思表示をなし、翌十七日午前十一時三十分頃工場長外、課長全員入場の上正門傍に立入禁止の掲札を行い、倉庫、事務室その他作業場に施錠し施錠施設のない所は釘付にしこれも不可能な所は閉扉の上車留めをするなどの方策を講じ鍵は一括して守衞所内に保管し当時外部の友誼団体の出入りが頻繁であつたので表門には鉄条網を張つて四尺幅の木戸を設けておいた。然るに組合は八月十六日、会社側が工場閉鎖を通告するや、同日直にストライキを解き右工場閉鎖をもつて会社の挑発なりと誣い、連日工場閉鎖の通告を無視して組合は、晝間は組合員全員、夜間は十名乃至七、八十名の組合員を工場内に立入らしめ、正門には警備員と称するもの二、三十名を配備し会社側来訪者、警察官、新聞記者等の入場を妨害し、一方共産党関係者その他、外部友誼団体を公然と入場せしめ、賠償工場入場の正規の手続に違反していたが、八月二十二日には会社側の拒否に拘らず作業場閉鎖に伴う私物品持出し、或は賠償機械の手入れに名を藉り、正門木柵の鉄条網を破り施錠中の作業場に或は合鍵をもつて或は窓から侵入する等の方法で殆ど全員で工場内に押入り工場を占拠するに至つたので、会社側は組合に対し厳重抗議したが組合員は占拠を解かず、会社が隙を見て更に繰返し行つた施錠釘付等は屡々前同様合鍵をもつて開かれ又は毀されてしまつた。更に八月二十五日は組合は作業開始を一方的に宣して全員職場内に立入り会社側職員課長が偶々閉鎖中の工場を巡検せんとするや忽ち多衆をもつてこれを取囲み吊上げ、又は暴力をもつてこれを工場外に抛り出す等の暴状を行い、日を逐うて暴力による工場占拠の実を固めつゝあつたが、その間東京都賠償課及び関東民事部より賠償物件管理担当者に対し、賠償物件の手入れは管理担当者の責任で行うべきであつて、組合が勝手に行つてはならないとの注意を受けるに至つたが、前叙の如く組合員等が工場を占拠しているため会社は如何ともしがたく、さればとて工場閉鎖を解く時は再び前叙の如き混乱を倍加することは必然である。そうして組合の組合活動は経済的な正当な範囲を逸脱して、共産党の政治闘争の一環として行動していることは明かであつて、賃上げ闘争に名を藉り会社の実情に即しない要求を強硬に呈示して政治闘争を煽り工場長の排撃、職場離脱による暴力的な大衆行動を展開し、作業場閉鎖前の生産は五〇%以下に落ちていた程である。従つて会社としては円満な解決のため懸命の努力を続けてきたが業績の低下と組合の暴状の激化を見るのみであるので叙述の如く会社の企業権保持の為、已むを得ず工場閉鎖を続けざるを得ない。然るに組合は暴力をもつて工場閉鎖を無視して工場を占拠し、会社側職員の入場を阻止し、これに対し強暴な行為に出ているので賠償物件の損壊の危険もあり、又不法な生産管理移行えの虞れもあり、所謂赤色デルタ地帯の拠点として社会的不安を醸成しつゝあるので、速かに会社企業の正常な運営えの復帰のために不当な争議行為を排除し、工場の占有に対する妨害の停止を求めるため、会社は妨害排除占有保持の訴を提起すべくその準備中であるが、その裁判まで目下の急迫せる状態を放置する時は、会社は遂に再び起ち得ぬ打撃を蒙るに至るべき事は火を見るよりも明かであるので、秩序回復のため工場えの立入禁止の仮処分命令を求めるため本申請に及んだ。

四、なお申請人会社は昭和二十五年八月十七日被申請人組合に対し、従来使用を許していた機械工場内組合事務所の明渡しを要求し、これにかえて食堂の使用を許すべきことを通告し、組合は一応これを了承していたが、その後態度を変更して明渡しに応ぜず、使用を認めていないピンポン、ユーラス室をも組合ホールと称して無断占有しており、現在の組合事務所は機械工場にあるため之を本拠として前述の如き工場の占拠暴状を行つて居るので之れが継続は会社に償ふべからざる損害を蒙むるものであつて既に使用貸借関係の消滅した今日、明渡しの本訴を待つては放置し得ない急迫の状態にあるので右立入禁止の仮処分と同時に右明渡しの仮処分命令を併せて求める次第であると附陳した。

被申請人の答弁事実に対し、次の通り答えた。

(一)  申請人会社が被申請人主張の工場閉鎖を解除したことは認めるがその余の事実中申請人主張の事実に反する部分は否認する。

(二)  申請人会社が昭和二十五年十月二十五日工場閉鎖を解除しても、同年九月十五日に行つた人員整理、及び賃金決定の問題を繞つて会社と組合間は依然闘争過程にあり、そうして会社は同年九月十五日会社の企業再建の為め人員整理を行い会社は組合員中二百九十九名を解雇したのであるが、工場閉鎖解除と共に右解雇人員及び解雇をしない従業員中既に入場せる者を除く二百七十八名に対し、就業命令を発したが、右の者等は解雇者と同調して未だに就業命令に応じない。そこで今若し本件仮処分命令を取消される事があれば、解雇に反対を唱えている前示解雇者並びに二百七十八名の就業命令に応じないものは、再び工場内に入つてこれを占拠する虞が濃厚であるから、本件仮処分決定は依然これを維持する必要がある。(疏明省略)

被申請人等代理人は、東京地方裁判所八王子支部が昭和二十五年九月十五日、申請人、被申請人間の同庁昭和二十五年(ヨ)第九十五号仮処分命令申請事件に付いてなした仮処分決定はこれを取消す。申請人の本件仮処分申請はこれを却下する。申請費用は申請人の負担とする。旨の裁判を求め、事実上の答弁として次の通り述べた。

(一)  申請人主張の申請理由、一、記載の事実中旧会社と富士産業従業員連合会及び同三鷹分会との間に締結されていた労働協約が失効し第二会社である申請人会社と組合並びに連合会との間は無協約状態であるとの点を否認し、その余は認める。同二記載の事実中課長全員が旧会社に対して辞表を提出するに到つたこと、組合が昭和二十五年始め頃から同年七月始め頃まで一万二千円のベース引上要求を以つて会社に迫つていたこと旧会社が組合に対し、三月分までに暫定手取一万百円支給、四月十四日基準生産額二千六百五十万円に対し九千円保証、超過生産額の二〇%を加給する旨の提案をなし五月三日には、五、六月両月分に限る暫定措置として九千円ベースの他に特別報償金三千円を支給する旨の提案を行つたこと、七月十日に至り連合会から改めて一万二千円要求の申し入れをなしたこと、会社が八千円ベースを主張し、数次の団体交渉を重ねたこと、八月二日会社が八千五百円ベースを提案し、組合がこれを承認しなかつたこと、八月十五日午前四時半頃会社側のものが工場に出向いて来たこと、十川次郎工場長の退職を要求したこと、会社が昭和二十五年八月九日浅野彌祐、同月十二日城所和一等に退職を要求したことは、いずれも認めその余は否認する。同三記載の事実中組合が八月十五日午前〇時を期してストライキに入つたこと、同月十六日午後六時に会社が組合に対し工場閉鎖を通告してきたこと、八月十七日午前十一時三十分頃工場長他課長全員入場の上申請人主張の如き方法で工場閉鎖を行つたこと、組合が申請人主張の頃ストライキを解き工場内に入り正門傍の木柵を取壊したこと、工場閉鎖後八月二十一日まで組合は昼間は組合員多数、夜間は数名の組合員を工場内に立入らしめ正門に警備員を置いたこと、八月二十五日に至り職制を通じ就業する旨の通告を行い全員職場に入場したこと、同月二十二日賠償機械の手入れ及び私物持出しのため入場したこと、及び賠償施設の保守保管の責任者は管理担当者である被申請人会社専務取締役小谷武夫の専管事項であることは、いずれも認め東京都庁賠償課及び関東民事部から申請人主張の如き注意のあつたことは不知その余はすべて否認する。同四記載の事実中申請人がその主張の頃被申請人に対し従来使用を許していた機械工場内組合事務所の明渡しを要求し、これにかえて食堂の使用を許すべきことを通告してきたことは認めその余は否認する。

(二)  組合が会社に対して提出した一万二千円ベースの賃上げ要求は正当な要求であつた。即ち右要求は現在の経済状態に於ける勤労者の生活維持の為に已むにやまれぬ要求であると同時に、それによつて労働者の勤労意慾を昂揚することが会社の企業を維持し発展させるための唯一最善の道であつたからである。会社が富士産業株式会社から独立し、第二会社として発足すれば当然に独立企業として各種の費用がかさみ、それに地方税の増徴、鉄鋼補給金の打切に伴う材料費の値上げ、金融の困難等の悪条件が重なり従来のまゝの消極的な営業政策では一層苦境に陥るであろうことは組合も亦早くからこれを予想し、寧ろ会社側より詳細かつ慎重な検討を続けてきたのであつて、そのためにこそ組合は昭和二十四年七月頃から少しづゝ給料の遅配を始めた経営者を鞭韃し、同年九月賃下げ同年十二月の帰休等の提案に対してもこれが組合員の生活を脅し企業を破壊に導くものであることを強調して撤回させ更に同年末から昭和二十五年にかけては積極的に銀行に働きかけて融資の途を開く等まさに組合の団結の力によつて工場の生産を守つてきたのである。一方昭和二十五年初頭来、主食を中心とする生活必需品は一様に昂騰し加うるに地方税の増徴、地代、家賃等の値上等のため組合員の生活費は増加の一途を辿り、殊に朝鮮戦乱以来の状勢はこの傾向に一層の拍車をかけ、組合員の生産意慾に甚だしい悪影響を及ぼしつゝあつた。従つて新会社発足に伴う経営の困難を賃金引下げ大量解雇、労働強化等、労働者の負担に於て解決せんとすることは到底不可能であるばかりでなく、若しそのような措置をとるならば直ちに生産低下の結果となつて現れ経営は益々苦境に立つであろうことは火を見るより明らかであつた。そこで組合は経営の好転を図るためには企業の拡大、生産の増加等積極的な方策による以外になく、そのためには生産の最大要素である労働力を百%に生かし、その裏付けとなる最低賃金を確保するとの結論に達したのであつた。幸い三鷹工場に於ては未だ一月たりとも需要に応ずるだけの生産を挙げ得たことなく、完成品は次から次えと即座に註文主に引渡されるような状態であつた。組合が昭和二十五年四月に一万二千円ベースを要求し、曲りなりにも四、五、六月にはこの要求の線で妥結し、更に七月十日連合会の名に於て改めてこの要求を提出したのは以上のような見地に立つていたのである。然るに会社の回答は逆に右要求の三分の一に切下げた八千円ベースであつたので、組合はことの意外に驚き直ちに同年七月十五日から八月四日までに六回に亘る団体交渉を開き、右交渉の席上組合は労資双方の賃金案は企業防衞の難点に於て基本的な問題に関する論議を尽して一致点を見出すべきであり、且つ労資双方の案による人件費総額の差は月に四百万円乃至五百万円であるが、この差額は生産及び売上げの増大により三ケ月乃至四ケ月の内に充分埋め尽して尚余剰が残る見通しがあるから、この点について充分検討すべきであると主張したにも拘らず、会社は当初の回答より若干譲歩した八千五百円ベースをもつて最上の案であると云うのみにて、一向に基本的な論議に誠意を見せず、遂にさしたる進捗を見ないうちに交渉を打切つてしまつたのである。従つて会社が組合は一万二千円の要求を頑強、執拗に固執したというのは全く当を得ていないのであつて、却つて会社こそ自案を固執してその前提となるべき基本的論議を故意に回避したものであつた。仮りに申請人主張の如く組合の一万二千円の要求が不当な要求であつたとしても、これが「正当な組合活動の範囲を逸脱する」ものではない。労働組合法は所々に「正当な」組合活動について規定している(同法第一条第二項、第七条第一号、第八条)がこれ等の規定する所謂「正当」とは、組合活動の手段としての具体的行為が正当であることを意味するのであつて、要求目的が経済的に或は法律的に妥当であることを意味するのではない。例えば特定の企業では客観的に到底実現できない高い賃金を要求しても、それだけで正当ではないということはできない。従つて組合の要求が申請人主張の如く如何に「日本経済の実情を考えず、会社の苦境を省りみ」ないものであろうとも又それを如何に「頑強、執拗に」「固執」しようとも、それが組合活動を又争議行為を不当ならしめるものではない。まして組合の賃金要求が如何にその内容において不当であろうとも、それ故に工場立入り禁止の仮処分を必要とするというようなことは到底考えられない。

(三)  次に会社は課長全員が組合の圧力に堪えかねて、止むなく経営指揮を放棄して辞表を提出したかの如く主張するが、これは事実を誣るも甚だしい。即ち昭和二十四年七月に始まつた賃金遅配は同年十一月に入つて遂に一ケ月半分にも及び年末を目前に控えた組合員の生活は最早到底耐えられない限界に達していた。これ等の事情は同時に工場の生産に悪影響を及ぼしていた。かゝる窮状にあつて組合員が直接の上長である各課長に対し「何とかして慾しい」と要請するのは誠に已むを得ない当然の成行であり、課長連も亦組合員の生活と工場の生産の情況を眺めれば「何とか本社とかけあつて窮状を打開しよう」と考えたのも当然のことであり、かくて課長全員は昭和二十四年十二月「危機を切拔ける為に我々は辞表をもつて本社と交渉し、何とか銀行融資を受けられるように努力しよう」と決意したのであつた。このような組合の団結の力と課長連の捨身の努力によつて、昭和二十五年二月には遂に融資の途を勝ち取つて工場を守つたのである。これをもつて恰も課長が組合の圧力に堪えかねて職務を捨てた如くに主張するのは、自らの責任を棚に上げたまゝ組合の工場防衞の努力を冐涜するものである。

(四)  職場の全員が課長と交渉する所謂職場交渉は何故起つたかについては既に前述した通りであるが、更にその後昭和二十五年四月賃上げ要求提出により五月、六月両月分は暫定措置の決定を一応見たが、七月以降は賃金額未定のまゝ同月十五日より団体交渉が行われたのであるが、七月を過ぎても尚基本的労働条件が定まらず、組合は一万二千円貰えるのか或は八千五百円に止まるのかいずれとも決らないまゝに極めて不安定な状態で働かざるを得なくなつた。この間会社は賃金切下げ案と並んで就業規則の改訂、その他の問題を提起して賃金交渉を遅延させ、組合員の不安はつのる一方であつた。特に工場の課長連は前日確認したことを翌日ひつくり返す等、徒らに食言して組合員を刺戟した。八月に入つていよいよ賃金は遅配を始め同時に大量解雇の準備が進められた。このように組合員を不安に陥し入れたまゝ会社幹部は一向に工場へ姿を見せず、前工場長小谷武夫の如きは六月二十九日以降ついぞ工場に来たことなく、社長佐久間次郎も工場へは社長就任の挨拶にさえこなかつたのである。このような状態のもとに於て組合員は最早一人々々が課長と話して賃金支払の見透しや第二会社発足の事情等を聞かなければ事の真相がわからなくなつてしまつた。然るに課長連の返答は常に曖昧であり、中には一言も答えない課長も現れるに到り、組合員の質問追究は一層熱心にならざるを得なかつたのである。又八月十六日工場閉鎖通告後は改めて八月二十三日に組合から会社側に対し団体交渉を申し入れたが会社はこれに応ぜず、一時交渉中絶の形であつたがこの間課長に対し組合員が遅配の解消賃上げ等その要求をもつて交渉を求めたのは、一日も早く事態の収拾を願う全組合員の当然の行為である。この間を通じて会社の主張するような所謂暴力的吊上げは一度たりとも行つたことはない。

(五)  課長に対する前記交渉は同時に工場の最高責任者である十川工場長に対しても行われた。然るに工場長は本社から工場経営に必要な権能を与えられておらぬが如く、当然工場長の責任に於て独自に決し得る事項もこれを容易に肯じなかつたゝめに、組合員が工場長を鞭韃して本社との交渉に当らせるようになつたのも当然のなりゆきであつた。七月下旬の数回に亘る交社に於ては、一般組合員から一万二千円の賃上げを熱心に要求されたゝめに工場長は始めて賃上げ要求が真に下部組合員の已むにやまれぬ要求であつて、単に組合役員の恣の要求でないことを知つて同人は一般組合員の心からの要求に応ずることのできない工場長は辞職するほかはない旨をつげ、右組合員の要望に基き自ら納得して本社に対し辞意を申出たのであつて、決してその真意に反して止むなく辞意を固めたのではない、そうして組合員と工場長との間になされた交渉の間、申請人主張の如き暴行脅迫等の所謂「吊上げ」の事実もない。

(六)  而して昭和二十五年八月十五日組合は当時ストライキ中であつてストライキを守るために工場内の盜難、火災等を予防する必要上、従来からの慣行に従つて一定の警備要員を工場内に宿泊せしめていた。即ちストライキ中に盜難その他の事故があれば必ず組合にその責任が帰せしめられてストライキ弾圧の口実を与えることになるので、右の如き警備員を配置していたのであるが、同日早朝四時半頃全く非常識な時刻に十数名のものが工場内に現れたので組合員が同人等を呼び止めて聞くと、会社のものだと云つていたが、その中には明らかに会社のものとは思われない数名の怪しげな者も含まれており、その上その前日に工場の課長二名が止めさせられているので単に会社のものというだけでは信用するわけにゆかないので呼び止めて何を持出すのか一応確かめるのはストライキ中の労働者としての当然の警戒心といわなければならない。そうして近寄つてよく見れば既に久しく工場に現れたことのない十川工場長、山本課長がいたので組合員は同人等に聞きたいことが沢山あつたので同人等の承諾を得て工場内に戻つてもらつていろいろ質疑応答の交渉を繰返したが、その間同人等を暴行監禁した事実はない。尚山本課長はその際負傷したと称するので、組合でも心配して直ちに医師を呼び即座に診てもらつたが、下肢に小さなアザがあるだけで別に異常はなかつた。これは当時居合せた警察官も認めており、同人の右下肢のアザは同人自身が鉄条網をくゞつたり走つたり等した際どこかで負つたものでその原因は不明と言う他ない。又組合は未だ一度たりとも会社の書類をその手中に入れたことはない。会社重役は工場に来ず、工場長は工場外で指揮を執ると称して出勤しなかつたので当時書類は課長以下の人達が保管していたが、組合がこれを保管した事実はなく、又課長以上の人達のもつ書類を組合員が取上げたようなこともない。

(七)  従来とも本社幹部は三鷹工場の経営に熱意なく工場の各課長もこれには困つていた。殊に昭和二十五年七月に入つてからは本社重役は誰一人として工場に来たものはなく、課長工場長は進んで課長会議を開いて工場経営に腐心していたその中の最も熱心な課長が城所、浅野両人であつた(尚浅野氏は何れの政党にも属していない)七月以降組合員は従来通り業務上の手続はすべて課長の承認を求め、工場長の指示を必要とする時は十川氏が既に工場外で生産指揮をとるに到つた後も課長を通じて所定の手続きを取り会社が業務命令をもつて組合の分裂を策しない限り一度たりとも平常の業務系統を乱したことはない。右のような次第であるから組合が工場を占拠したとは誣いるも甚しく会社こそ工場を放棄したともいえるのである。工場閉鎖後に到つても例えば八月二十六日に仕上げ職場で一組合員が疑似赤痢と診断された際には消毒入院等総て課長の指示を受けてこれを行い、又八月二十八日には杉山課長の指示のもとに定例検便を行い、会社の指揮系統が排除されたということは絶対にない。又会社側の人の工場出入を拒否したことは一度もなく、会社側来訪者警察官或は新聞記者等が工場臨時本部に行くのを拒んだこともない。そうして又他の労働組合員が組合事務所に来訪することはあつたが、これは労働者の連帯心に基いて争議中の組合を激励しに来たにすぎず、もとより正当な組合活動に属するが出入門はいずれも会社側守衛立会のものに行われており、又入門した外部団体員は決して組合事務所以外には立入らなかつた。組合が正門に警備員を配置したのは争議中の組合の一般的警戒の役割を果す為のものであるが、特に会社が不法に組合事務所への出入りを妨害したから已むを得ず配置したのである。以上の如く組合及び組合員は工場閉鎖通告前後を通じ、決して会社側の工場に対する占有を奪つたり或はこれを侵害したこともなく、会社側の出入門を妨害したこともなく、課長連を工場外に追出したこともなく、会社の業務上の指揮命令を乱したことはない。仮に以上のような事実があつたとしても事業上秩序維持のためには就業規則というものがあるから秩序維持の目的を達成するためには、まず就業規則の適用にまつべきである。労働者は職場に入ることを本分とするものであつて、労働者が職場において「暴状」をなした時は職場の秩序を維持し「暴状」を排除する為には就業規則を適用しその適用にまつべきであり、どうしてもその労働者を職場から退去させなければ秩序を維持できない時には就業規則の定めるところによつて懲戒処分として出勤停止の処分をすることもできないわけではない。それを右のような方法によらないで占有妨害を理由に立入禁止を求めるのは職場に入るという会社自ら与えた労働者の本分と矛盾することゝなる。従つて労働者が申請人会社と労働関係を存続する限り本件仮処分は許さるべきでない。

(八)  次に申請人会社は賠償指定施設の管理に支障がある旨主張するが、賠償指定施設の保全義務は昭和二十四年七月以降極めて緩和され非稼動機械には特段の手入れを要せず、稼動機械についても機械を愛する労働者が毎日終業前に手入れする以上のことは要求せられておらず従来とても管理担当者たる小谷氏から何等特別の指示があつたわけではない。そして組合は従来とも施設保全については充分の協力を尽しており幾度かのストライキの際にも施設保全に手を拔いたことはなかつた。八月十六日の工場閉鎖通告によつて組合員は平穏に職場を退いたが、同月二十日に降雨があり工場建物は雨漏りのため、雨水の流れる部分が続出し、機械にも錆が出たので組合員は施設保全に重大な支障のあることを認め、同月二十二日已むなく会社ならびに都庁賠償課に連絡の上職場に入つて一斉に機械の手入れを行つた。その後本件仮処分執行を受けるまで毎日従来通り帰宅前約十分の機械手入れを怠らず、施設保全に全きを期した。尚八月二十五日に職場に入つた際、被申請人主張の如き乱暴があつたことは絶対にない。その際鍵も守衛所からその承諾を得て借りている。同年九月に入つて二度程都庁賠償係、並びに関東民事部の係官が視察に来たが一般的注意の他は格別組合側が施設保全について注意を受けたこともなく、却つて組合が官庁側と連絡を緊密にして施設保全にあたつていることを感謝された位であり、九月十日には電力料金不払いのために工場の送電が中止され、施設保全に支障をきたしたので組合は直に都庁に出頭して、その旨をつげ都庁の計らいで送電手配を得たこともある。そしてそしてその際都庁係官は組合の依頼により会社側の施設保全の不充分さについて会社に警告すると云つていた位で管理担当者小谷氏は既に久しく工場に姿を現わさず、自ら管理の責に背いている。自分で義務を怠つておきながら組合が自主的に管理保全の措置をとることを責めることは許されない。工場閉鎖の前後を通じ、同年八月十六日から二十二日に至る間を除いては組合の努力によつて施設保全には何等欠くる所はなかつたのである。

(九)  以上の如く申請人が主張するような組合が工場の占有に対して妨害した事実は全く無根であるか、又は甚だしく誇張されたものであるか、事実のあるなしに拘らず、申請人の主張はそれ自体法律上許されない。言いかえれば工場閉鎖によつて労働者の工場への立人りを禁止することは許されない。即ち我が憲法はその第二十八条に於て、労働者の団体行動権を保証し、これに基いて労働組合法が制定され、特にその第一条、第二条、第八条において、労働者の争議行為は刑事上、民事上免責されることが明らかにされており、これによつて労働者の争議権が法律上認められているのであるが、使用者の争議行為については憲法はもとより、他の如何なる法令においてもこれを権利として認め、或は、これを刑事上、民事上免責することを定めた規則はない。従つて使用者の争議行為を当然に合法的なものとみなければならないとする実定法上の根拠はどこにも存しない。そこであくまで使用者の利益を守ろうとする立場に立つものは、このような明らかな実定法を無視して、当事者対等の理念に救いを求めようとするが、労資対等ということは労働組合法第一条、労働基準法第二条に夫々うたわれており、誠に我が労働法の基本理念である。これは市民法の下における形式的平等が労働関係に於ては実質的には不平等を結果するので、これを形式的不平等によつて実質的平等、即ち労資対等をもたらそうとするのが市民法の修正としての労働法の立場だからである。即ち労資対等とは現実にあるものではなく、あらせようとする立場なのである。この事は労働組合法第一条が「対等の立場にたつことを促進する」といつているのによつて実定法上明らかである。又この原則は形式的不平等によつて実質的平等を実現しようとするものであること、言いかえれば労働者の立場を保証することによつて使用者と対等の立場にたゝせようという片面的なものである。このことは我が労働法の全体のあり方、なかんずく憲法第二十八条、労働組合法第一条によつて殊に明らかである。従つて労働者に争議権があるから使用者にもこれに対応する手段が与えられなければならないとする考え方は労働法の少くとも我が実定労働法の根本理念にそわない考え方だといわなければならない。又従つて使用者の争議権について何も定めない片面的な実定法の規定の仕方は決して片手落なのではなく我が労働法の根本理念の現れなのである。又仮に争議行為における労資対等ということがなに程か考えられるとしてもその限界が又問題である。作業所閉鎖はその名にも拘らずその目的は賃金不払である、その性質は丁度同盟罷業と同じ結果を使用者側からの働きかけでもたらすことになる。従つてその狙は労働者に賃金を支給しないで圧迫を加え経営の停止による自己の側の損失を堪えてゆこうというのである。この意味で労働力を集団的に職場から排除するのが作業所閉鎖である。従つて争議行為における労資対等の原則を使用者の利益のためにも認められるとしても、それは労働者の側における労務の不提供、使用者側における賃金の不払という点に現われるのであり、その為に作業所閉鎖という争議手段がとられるのである。従つて労資対等の原則が賃金不払の理由となることはあつても作業所から労働者を離脱させる理由となり得よう筈がない。

(一〇)  仮りに右理由がないとしても申請人会社は昭和二十五年十月二十六日工場閉鎖を解いたのであるから工場閉鎖を立入り禁止の理由として維持することは許されない。少くともこれを理由とする保全の要は全く失われたものである。(疎明省略)

三、理  由

(一)  申請人主張事実中先ず

(1)  申請人会社がその主張の如く、昭和二十五年七月十三日訴外富士産業株式会社(以下単に旧会社という)の第二会社として設立された申請人会社の本件三鷹工場は昭和二十一年三月三十日商工省告示第五十二号で賠償工場の指定を受けたこと。

(2)  旧会社と雇傭関係のあつた本件三鷹工場の従業員等は、申請人会社設立と同時にそのまゝ雇傭関係を承継し、申請人会社の従業員として取扱われてきたこと。

(3)  右従業員は申請人会社主張の如き全日本金属労働組合東京支部富士工業三鷹分会(以下単に組合という)及び全日本金属労働組合富士工業分会連合会(以下単に連合会という)を組織しており、旧会社と右組合及び連合会との間には、夫々昭和二十一年十月二十八日締結された労働協約(協約期間同二十四年十月二十八日迄)が存在していたが、組合には昭和二十四年十月二十八日連合会には昭和二十五年七月十三日いずれも旧会社の廃棄通告のあつたこと。

(4)  申請人主張の頃、課長全員が旧会社に対して辞表を提出したこと。

(5)  組合は昭和二十五年初頭から同年七月初頭まで、一万二千円の賃金ベース引上げ要求をもつて会社に迫つていたこと。

(6)  旧会社が組合に対し、三月分までに暫定手取り一万百円を支給、四月十四日基準生産額二千六百五十万円に対し、九千円保証超過生産額の二十%を加給する旨の提案をなし、五月三日には、五、六月分に限る暫定措置として九千円ベースの外に特別報償金三千円を支給する旨の提案を行つたこと。

(7)  七月十日に至り連合会からあらためて一万二千円要求の申入れをなしたが、会社は八千円ベースを主張し、数次の団体交渉の結果、八月二日会社は八千五百円ベースを提案したが組合はこれをも承認しなかつたこと。

(8)  八月十五日午前四時半頃会社側のものが工場に出向いてきたこと。

(9)  組合側より十川次郎工場長の退職を要求したこと。

(10)  会社は、昭和二十五年八月九日浅野彌祐、八月十二日城所和一等に退職を要求したこと。

(11)  会社が給料遅配を行つたこと。

(12)  八月十五日午前〇時に組合がストライキに入つたこと。

(13)  同月十六日午後六時に会社が工場閉鎖通告を行つたこと。

(14)  賠償施設の保守保全の責任は管理担当者である被申請人会社専務取締役小谷武夫の専管事項であること。

以上の事実は当事者間に争いのないところである。

(二)  そこでまず申請人会社が本件工場閉鎖を行うに至つた経緯について考えてみるに前叙争いのない事実と成立に争のない疏甲第九、十号、疏乙第十九、二十号と証人小谷武夫、同上野総一(第二回)同十川次郎、同山本弘、同池田功の各証言及び被申請人本人三井平八郎(第一、二回)同渡辺高寿、同武藤一二、同美島佐一の各本人訊問の結果(但し右被申請人等の供述中後記認定に反する部分はこれを措信しない)を併せ考えれば、旧会社は発足当時は業蹟あがらず昭和二十一年六月頃から漸く仕事が軌道にのり同年九月頃は大体従業員は七百八、九十名を使用したが当時は自動車部品の下請、進駐軍の食器、製粉機その他自動鋸、スクーターの製作をなしながらも、まだ準備時代であつた為食つぶして凌いでいたが、昭和二十一年秋から昭和二十三年八月頃までにかけインフレが昂進したゝめ三鷹工場に於ても、その都度賃金値上げの問題が起り数度の賃金ベースの改訂が行われ、昭和二十三年八月頃には賃金ベース六千円となり、一応同年九月以降昭和二十四年始め頃まで生産は順調であつたが、昭和二十四年始めから日本経済の容相が一変したゝめ生産は上つても売行が惡く製品を現金化し得ない徴候が現れ始めた。ところがたまたま同年四月頃農業用小型発動機の大量註文があり、会社は月産一千台の計画をたてたので組合は右計画に協力して作業は進捗していたが、同年六月十日頃になつて突然註文主から前記発動機の註文が解約され製作した発動機がストツクする等のことがあり、同年七月頃からは賃金の遅配が始まり、組合は会社に対して度々遅配解消を要求し、その後越年資金支給の要求をもしたに拘らず会社側から満足した回答が得られなかつた。そこで組合員は各職場毎に工場長並びに各課長個々人に対していろいろ交渉が行われたが、その際組合員は工場長や各課長の室に最初は少数で入室し、最後には全員組合員が集つてきて強硬に右要求を主張し、若し右要求が入れられない工場長や課長は辞めてしまえ、などといつて工場長並びに課長を吊上げたゝめ、各課長は昭和二十四年十一月頃には辞表を提出するに至つたが、その後社長から再建案を提示し、慰留され又旧会社と組合とのその後の団体交渉の結果、昭和二十五年二月十四日旧会社が訴外興業銀行から四千百万円の融資を受け、越年資金並びに賃金遅配は同年三月末日までに支払うことゝして一応解決したゝめさきに辞表を提出した各課長は辞表を撤回した。又二月末までの賃金ベースは表面は銀行に対する関係上、七千八百九十円としていたが、実質は九千円ベースであつた、ところが同年三月以降の賃金ベースは決つていなかつたので、同年四月七日組合は組合大会で主食、地方税及び一般物価の値上りによる生活費の膨張のため、賃金ベース一万二千円の改訂を決議し之に基いて会社に対し賃金一万二千円の要求をなし、会社の経理状況は当時、非常に苦境にありこれがため組合側の右要求に応ずることはできなかつたので一応三月、四月分は暫定手取りを一万百円と協定して支払つたが、組合側はあくまで右一万二千円ベースを主張して一歩も引かなかつたゝめ旧会社側は再び五、六両月分に限り暫定措置として九千円ベースの他に特別報償金三千円を支払うことにしたが、その際組合側は右報償金を支給してくれゝば生産をあげるといつていたので当時の会社の経理状態としては非常に苦しかつたけれども已むを得ず生産品以外の遊休資材を売却して、これが支払にあてた位であるが、生産は予想の半分にも上らなかつた。そうして同年七月十三日旧会社は解散して新しく申請人会社が発足することになつたので組合は会社に対し三鷹工場一万二千円、太田工場一万円の要求書を提出したが、会社は資本金八千万円であるのに当時旧会社の債務一億数十万円を承継し発足後未だ日が浅いため、金融機関たる銀行の態度も従来と変り信用も今までのようでないので到底右要求に応ぜられないので同年七月十五日会社は組合に三鷹工場は八千円、太田工場は六千七百円ベースにする旨申入れたところ、組合はこれを拒否したので会社は諸般の状況を慎査検討した結果已むを得ず同年八月二日三鷹工場八千五百円、太田工場七千円に譲歩したが、組合側はこれも拒否し、その間組合側は当時の工場長十川次郎が工場に入るや、サイレンを鳴らして就業時間中組合員が工場長の周囲に集り同人を取囲み或は工場長室、又はその隣室に組合員二、三十名ないし百数十名集り工場長に対し「ふざけるな」「ねぼけるな」「馬鹿やろう」「禿なにを言うか」などと罵倒し相当長時間所謂吊上げをなし、又「一万二千円を支給しない工場長は辞めてしまえ、もしできなければ重役を連れてこい」などと申し向け、更に工場長の私宅に組合員多数で押しかけなどしたゝめに工場長が工場内で職務を遂行できないようにし、同人が工場外(工場附近の森山荘)で指揮をとればそれを非難し同人を排斥し、又同年八月九日同人及び当時の総務課長城所和一が会社の命令で工場の重要書類を搬出しようとしたところ、これを阻止し搬出できなかつた、そうして又前記工場長のみならず各課長に対してもその頃工場長同様屡々吊上げがなされていた。

ところで組合は前敍の如く同年八月九日工場長と城所課長が工場の書類を取出しに来たので組合員等は組合の一万二千円ベース要求に対する会社側の回答は人員整理だということを察知し組合側では同年八月十五日午前八時の組合大会の決定に基いて、同日午前〇時に遡つて無期限ストライキに入つた。一方会社側は前敍の如く工場関係書類持出が不可能になつたゝめ、新めて同月十五日午前四時半頃会社総務部長上野総一、十川工場長等十二、三名の会社側のものが再び書類搬出のため工場に赴いたところ、組合員に入場を阻止されたが、これを排して入場し、同工場から脱出しようとしたところ、組合員等はスクラムを組んで再びこれを阻止したゝめ、十川工場長と同行の生産部課長山本弘は組合員のため捕えられ、無理矢理に工場内え連行され、そこで組合員多数が同人等を取囲み「お前たちが我々を敵に廻してやるとはけしからん、我々の言うことを聞かなければ叩き殺す」などと申し向け、同人等を工場内の所謂組合ホール舞台上に立たせ惡口をあびせ同所に於て約四、五時間吊上げをなしたこと、尚山本課長は組合員に捕えられた際約一週間治療を要する挫傷を負わされたこと。

(三)  そこで会社は組合側が会社発足前後を通じ、八月十五日までに前後八回に亘つてストライキを行い、その間前述の如く殆んど連日吊上げをしたり工場長排斥をなす等の暴状が屡々発生したゝめに工場長、課長の指揮、命令は殆んど行われず工場内の秩序は紊乱し実際には生産管理に等しい状態にあり生産は減退したゝめに企業の経営維持が到底不可能となつたのみならず賠償施設の保守保全の必要もあつたので已むなく右ストライキに対抗するために八月十六日午後六時を期して工場閉鎖を行うに至つたことが一応疏明され、右認定に反する被申請人提出の疏明方法は未だ容易く措信できない。

(四)  而して被申請人は使用者は工場閉鎖によつて労働者の工場えの立入りを禁止することは許されない旨主張するが工場閉鎖は労働者の同盟罷業怠業と並んで使用者の争議行為として労働関係法の認むるところである、しかも使用者はその資本を遊休せしめることによつて積極、消極の甚大な損害を覚悟せねば容易にこれを断行し得ないものであるから使用者が争議行為として右作業所閉鎖を行つても別に争議に於ける労資対等の原則が破れるとは考えられないのであつて結局本件工場閉鎖は適法に行われたものと云うべきであるから、被申請人の右主張はこれを採用しない。

(五)  そこで次に工場閉鎖後の事情について考えてみるに前記認定の如く会社側が工場閉鎖を組合側に通告するや組合は直ちに前記ストライキを解くことを会社に対し通告し一方会社側は同月十七日午前十一時三十分頃、工場長他課長全員入場の上正門傍に立入禁止の掲示を行い倉庫、事務室、その他作業場に施錠し、施錠施設のないところは釘付けにし、それも不可能なところは閉扉の上、車留めをする等の方策を講じ、鍵は守衞所内に一括保管し表門に木柵の鉄条網を張つて四尺の木戸を設けたこと。同年八月十六日組合が直ちにストライキを解きその後工場内に立入り正門の木柵を取壊したこと。工場閉鎖後八月二十一日まで組合は昼間は組合員全員を入場せしめ夜間は数名の組合員を工場内に宿泊せしめ正門には警備員と称するものを配置していたこと。及び同年八月二十五日に至り職制を通じ会社に対し同日正午を期し就業する旨の通告を行い全員職場に入場したことは、いずれも当事者間に争いがない。

そうして成立に争のない疏甲第十一号(疏乙第二十一号)同第十二号の一、同第十三号、同第十四号、同第十五号の一、二、同第十六ないし二十一号、疏乙第二十二、二十三号と、証人小谷武夫、同山本弘、同上野総一、同池田功、同蓮尾諭吉、同十川次郎の各証言、及び被申請人本人三井平八郎(第二回)同渡辺高寿の各本人訊問の結果を併せ考えれば前叙の如く会社が本件工場閉鎖を行つて後も組合員は依然組合事務所に行くと称して本件工場内に立入り、会社側の各課長を組合員多数で取囲み「ロツクは怪しからぬ、我々が働いた金で食堂の周りに柵などをやる位ならその金をよこせ」とか「お前は戦争がすきなのか、元軍人だから好きなのだ、二年後は共産党の天下になる、その時は絞首台だ、劉少綺(極東ユミンテルンの責任者)に訴えてやる」などと放言し、あまり無統制で礼儀をわきまえないので礼儀的にやれと言うと頭から怒鳴りつけ、又戸板を叩いたりなど脅迫的態度に出、所謂吊上げをなしたので、会社は会社本部が従来の組合事務所に近く正門からかなり離れていたのでは暴行脅迫の事実があつても外部から容易に察知できないので已むなく守衞所に臨時本部を設け、そこで各課長は事務をとつていたが八月二十日、二十一日両日に亘つて相当多量の雨が降り雨漏りがしたり下水が溢れ賠償指定機械が錆びていたので八月二十二日頃以後組合は賠償機械の手入及び私物持出しを理由に閉鎖中の工場の鍵を毀したり窓から入つたり或は釘付けにしてあつた扉を破壊して作業場内に入り、又工場正門前にさつた会社の木柵鉄条網なども取り除け外部団体のものを自由に入場せしめ別段仕事もせず各課長を連日前と同様の方法で吊上げにし臨時本部にいた課長を窓から抛り出し足蹴りにしたり或は多人数で工場外に担ぎ出し入場を阻止する等の暴状をなし尚前叙の如く同年八月二十五日正午を期して就業する旨の通告を行い全員職場に入場したが殆んど仕事をせず、依然各課長等の吊上げを行つており又工場閉鎖後組合員は工場内え、昼間は殆んど全員入場し夜間は七、八名から七、八十名常時宿泊し、その他外部団体の全日本金属労働組合員日傭労務者共産党地区細胞員が毎日二、三十名から五十名位、殊に九月十七日頃以降本件仮処分執行直前迄外部団体のものが毎日千数百名入場しており本件工場は殆んど組合員その他外部団体のもので占拠されたゝめに会社の工場経営は到底不可能であつたが、当時直ちに工場閉鎖を解く時は再び混乱が倍加すると考え工場閉鎖を続けてきたことが一応疏明される。

(六)  ところで被申請人は組合の賃金要求が如何にその内容に於て不当であつても、そのために本件工場立入り禁止の仮処分は許されないと主張するので、この点について考えてみるに、被申請人主張の如く労働組合法には所々に所謂「正当な」組合活動について規定しており、その「正当」とは組合活動の手段としての具体的行為が正当であることを意味するものであつて前示認定の如く組合活動がその範囲を逸脱した場合には又立入禁止仮処分を許されるものと解しなければならない。

次に又被申請人は工場の秩序維持のためには就業規則があるからこれによつて秩序を維持すべきであつて占有妨害を理由に立入禁止の仮処分は許さるべきでない旨主張するが、前示認定の如く屡々組合員や外部団体のもので工場を占拠したような場合には最早就業規則によつては秩序維持は不可能であつて、かゝる場合には使用者は占有妨害のために立入禁止の仮処分の申請をすることも亦許さるべきであるから、被申請人の右主張はいずれもこれを採用しない。

(七)  従つて申請人会社は被申請人等の本件工場に於ける叙述不法占拠に対し、妨害排除並びに占有保持の権利を有するものというべきであつて、これをそのまゝ放置する時は申請人は右権利の実行をなすことができず又はこれをなすにつき著しい困難を生ずる恐れがありもしくは著しい損害を生ずる虞のあることは明白である。尤も会社が同年十月二十六日工場閉鎖を解除したことは当事者間に争がない。従つて申請人会社は工場閉鎖をもつて立入禁止の本件仮分処を維持する必要は最早なくなつたとみられないでもないが申請人会社は九月十五日人員整理を行い目下人員整理及び賃金決定の問題を廻つて組合と闘争過程にあることは当裁判所に於て顕著な事実であり、証人上野総一(第三回)の証言により成立を認め得べき疏甲第四十号、同第四十三号、同第四十四号と右証人及び同小谷武夫の証言等を併せ考えれば被申請人組合員は外部団体の援助のもとに再び工場占拠を企図していることが一応疏明せられるので引続き仮処分を維持する必要があるものと云わなければならない。

(八)  而して会社が昭和二十五年八月十七日被申請人組合に対し、組合に従来無償使用を許していた機械工場内組合事務所の明渡しを要求し、これにかえて食堂の使用を許すべきことを通告したことは、当事者間に争いがなく、証人小谷武夫の証言から成立を認めうべき疏甲第三十五号及び証人十川次郎、同池田功の証言とを併せ考えれば、右組合事務所は一室十九坪のみ使用を許し、ピンポン、ユーラス室等は正式に使用を許していたわけではなく、たゞ組合が適宜無断で使用していたことが認められる。

右認定に反する被申請人本人三井平八郎(第二回)の供述はたやすく措信できないし、その他被申請人提出の全疏明方法をもつてしても未だ右認定を左右するに足りない。そうして証人小谷武夫、同十川次郎、同山本弘、同池田功、上野総一の各証言及弁論の全趣旨を綜合すると被申請人の右組合事務所は本件工場のほぼ中央の機械工場内の階上にあつて前判示工場の不法占拠は本事務所を中心にして為されておつて同事務所が右機械工場内に存する限り不法占拠は継続されて甚だしき強暴が持続され申請人会社は償うことのできない損害を蒙むる危険状態にあつたものであることが疏明される。

(九)  よつて申請人の前記各請求保全のため別紙目録記載の物件はすべてこれに対する被申請人等の占有を解いて申請人の委任する執行吏の保管に移し、被申請人等の本件建物えの立入りを禁止し右執行吏は現状を変更しない限度で、会社の食堂を被申請人組合の組合事務所として使用させることができ又右執行吏は現状を変更しない限度に於て本件工場並びにその敷地に申請人等の指定する申請人の従業員、その他のものに使用せしめねばならない。又右執行吏はその目的を達成するために必要な措置並びに適当な方法による公示をしなければならない旨の仮処分を申請するのは正当である。そうして本件に於て申請人は申請理由、疏明の補充として金百万円の担保をたてゝいるので、本件仮処分はこれを維持するを相当と看做すべく、よつて当裁判所は右認定と同趣旨に於いてさきになした仮処分決定を認可すべきものとし、申請費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用し主文の通り判決する。

(裁判官 相川米太郎、広瀬賢三、藤本忠雄)

別紙目録<省略>

(注)

仮処分申請事件

(東京地方八王子支部昭和二五年(ヨ)第九五号昭和二五、九、七申請同年九、一五決定)

申請人 富士工業株式会社

被申請人 全日本金属労働組合東京支部富士工業三鷹分会

右代表者 執行委員長

被申請人 三井平八郎

外七百七十八名

一、保証 金百万円

二、主文

第一、別紙第一目録記載の敷地並びに別紙第二目録記載の建物に対する被申請人組合及び同三井平八郎外七百七十八名(別紙被申請人目録の通り)の各占有を解き、これを申請人の委任した東京地方裁判所八王子支部所属執行吏の保管に移す。

第二、被申請人組合は前項の敷地並びに同建物内にその所属組合員(前項記載の三井平八郎外被申請人目録の通り)を立入らしめてはならない。

第三、被申請人三井平八郎外七百七十八名(第一項記載の被申請人目録の通り)は第一項記載の敷地並びに同建物内に立入つてはならない。

第四、第一項の場合右執行吏は現状を変更しない限度において第一項記載の敷地内南側塀中央附近所在の木柵等で囲繞した敷地百九十五坪及び同地上の木造平家建一棟建坪百五坪(食堂)を被申請人組合の組合事務所として使用させることができる。但し右建物えの通路は同所南側出入口に限る。

第五、第一項の場合右執行吏は現状を変更しない限度において第一項記載の建物並びに敷地を申請人及び申請人の指定する申請人の従業員その他の者に使用せしめなければならない。

第六、右執行吏は前各項の目的を達成するために必要な措置並びに適当な方法による公示をしなければならない。

(東京地方八王子支部――裁判官 相川米太郎、広瀬賢三、藤本忠雄)

(別紙目録省略)

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